~わたしが信仰を持ったきっかけ~
私は牧師の子に生まれました。
ですので、生まれた時から教会にいるような者です。
ただ、それですとお話が終わってしまいますので(笑)、幼少の頃を少し振り返ってお話をしようと思います。
幼い子どもはいろいろな真似をして成長します。それが親であれば、周りの人たち、テレビの画面であったり・・・・私も例におよばず、親の真似をよくしていました。しかし、牧師の子どもとなりますと話は少々変わってきます。
教会が自宅だったため、なんの躊躇もなく講壇にも上がってはしゃいでいた幼い頃、私はよく「礼拝ごっこ」と称して礼拝の司会の真似をしたりしていました。
その礼拝ごっこで、どうやっても真似できないものがありました。聖餐式の真似です。
聖餐式では信仰を持ち、洗礼を受けた方がパンとぶどう酒を礼拝でいただく式。
私はこれを、一時期本当によくやっていたと思います。
食事にパンが出たり、飲み物が一緒に出てくると、よく父の真似をしていた気がします。
しかし、これが実際の礼拝の時にはできませんでした。
なぜなら、私はまだ洗礼を受けていなかったからです。「大人のみんなはパンとぶどう酒をいただくのに、ぼくはそれに参加できない。どうしてだろう。」このもどかしさをいつも感じていたのでした。
「ぼくも聖餐式に参加して、同じことをしてみたい。」
思えば、これが私にとっての信仰を持ったきっかけだったのではと思います。
その後、幼稚園を卒園して間もなく、私を含めて4、5人が洗礼を受けることになりました。当時は風呂場に水を張って。
水に顔をつけるのが苦手な私だったので、後に受洗直前直後の様子は写真で見た時に、まともに写っている写真がなかった記憶があります。
あれから20年あまりが経ちました。
紆余曲折の中で、神様はこのような形で私を教会に送ってくださるようになりました。
教会に行ける喜びをかみしめながら信仰生活を歩んでいきたいと思います。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」 ヨハネの福音書1章12節
受洗までの道のりはとても長かったと思っています。
しかしその時を神様が導いてくださったのだと今は確信することができます。
私は、幼いころから色々な場面で「神様が悲しむよ」「きっと神様も喜ぶね!」と母に言われていたので神様の存在は身近にありました。そんな母が私に選んでくれた幼稚園には大きな教会があり、私はいつも教会の前やマリア様のお庭で遊び、サウンドオブミュージックのシスターのまねをしてお祈りをしたりしていました。初めて行ったクリスマス礼拝では、少しおしゃれをしてコートを着て、火の灯ったろうそくを持ち、聖歌を歌う。このことが幸せで、「自分は何でこんなことをさせてもらえるのだろう」と感動しました。その時の教会の様子が今でもしっかり思い出せるほどです。
進学しキリスト教学園中学に入ると、そこでは毎朝の礼拝と授業で聖書に触れ、毎日たくさんの讃美歌を歌いました。全学年すべての生徒が四パートに振り分けられ、とてもきれいなハーモニーがいつもどこかで聞こえるような環境でした。
しかし中学となると学校内での対人関係や家庭環境も変わり、息詰まることもたくさん出てきます。持病の悪化で好きだった音楽やスポーツも辞めざるを得なくなり、色々なことに興味をもってしまう私は、自分の病気は治らない、友人たちにもその事を言われる・・・将来も見えなくなってしまいました。
思春期でもあるこの時期、何もしていない子がのけ者にされたり、常に誰かの陰口が聞こえたり。気が付けば仲直りし、ついこの間まで自分がやられていたことを他の子にする。こんなに自分勝手な人たちばかりでみんななんとも思わないのか、何もしていないのに悪く言われ惨めでどう対応していいのかわかりませんでした。ただお祈りの時間に「みんなが幸せになりますように」と祈っていました。
そんな時、朝の礼拝の聖書箇所をたまたま見返してみると、この言葉が目につきました。
ローマ12:17~21「誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけなさい。できればあなた方は全ての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい「「復讐は私のすること、私が報復する」と主は言われる。」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば燃える炭火を彼の頭に積むことになる」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
なんてすごいことが書いてあるのか。聖書って・・・。すごい。
その後、礼拝や聖書の時間。先生が聞き落としてしまいそうな時に言う聖書の箇所を開くと、またすごいことが書いてある!!!と驚くことが度重なりあったのです。どんどん聖書に惹かれていき、卒業しても聖書と関わっていたい、教会に行きたいと思うようになりました。自分なんかが真面目に教会に通えるのかわからなかったので高校卒業前聖書のテストの裏に先生宛に手紙を書きました。「先生はどうして毎週日曜日教会に通うことができるのですか?私は聖書が大好きだけど、友人との用事や日曜の朝はゆっくりしたいと思ってしまいます。教えてください。」すると、先生から一言「いかなければいられなくなるのですよ」と返事が書かれてありました。
信仰を持つってそういうことなのかと思いながら卒業を迎え、家庭内の変化や自分自身と向き合いながら一人、家で聖書に頼り身勝手に祈っていました。神様はこんな私の祈りを聞きいれてくださったのか高校卒業後たった二ヶ月でこの教会に導いてくださいました。それから半年後にはそれまでどうしても理解ができなかった「イエス様が私たちの為に十字架にかかってくださった」という事も、スッと心に落ちました。その後早く洗礼を受けたいと思っているのになかなかその機会が当てられず、先生に相談すると「必ず一番良い時に」と言われたのでその時を待って祈りました。
今思うとその時期は私の中で一番辛く苦しいことが詰まった長い時間でした。
教会にもなかなか行けずに、学校や仕事の人間関係色々な環境の変化もあり、あっという間に五年が経っていました。私は結婚し長女の妊娠を機に里帰りで水戸に戻ることになりました。水戸の教会で礼拝にも出られるようになり、やっとその時が来たと実感しました。しかし自分が本当にクリスチャンになれるのか不安で信じられずにいました。そんな中洗礼の準備は着々と進めていただき無事に2011年11月20日洗礼を受けることができました。今までの時間を振り返り、ここまで来るのに通るべき道だったのだと思えたこと、臨月に洗礼を受けられるという事が私の中で新しいステージに進みこれから家族や子供たちも守られるのだという安心感、イエス様を信じ大好きなこの教会の一人となれたことに感動しました。早く洗礼を受けたいと焦っていた時もありましたが、神様が一番良い時を用意してくださるというのはこういうことで、私が足掻こうが喚こうがその時は神様が用意してくださると何年も前に先生と話したことがしっくりと胸に落ちました。色々な気持ちがこみ上げ一人緊張したことを思い出します。
罪深くダメなところばかりの小さき者ですが、神様から大事な命を預かる者としても、少しでも聖書の通りに歩んでいけますように。こんな私をも許してくださるという事、祈れる事、子供たちにはこんなに幼いうちから聖書に触れさせてあげられるということに心から感謝です。
この導き、恵みが、子供たち、夫、母そしてたくさんの人たちにもあるように祈っていきたいと思います。
水戸福音キリスト教会
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