'23/11/26 主日礼拝「キリストのへりくだり」 水戸第一聖書バプテスト教会 武井俊孝牧師

聖書箇所 ピリピ 2:1~11

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。

 

 

 奉仕をすること、すなわち「奉げて仕える」ことが私たちにとって喜びであるのはなぜでしょうか? それはまさしく、「奉げて仕える」生き方をされたお方、イエスさまの生き方にならうことだからです。今日の本文では、イエスさまのことが出てまいります。イエスさまの「奉げて仕える」生き方がどんなにすばらしかったか、また私たちはその生き方から何を学ぶ必要があるか、ともに見てまいりたいと思います。

 1節のみことばは、あなたがたピリピ教会が、もしこれこれこのような教会だったら、と、理想的なキリストの教会のあり方について、4つないしは5つの特徴を挙げて述べています。第一に理想的な教会は、「キリストにあって励ましがある」教会です。私たちは励ましを必要としているでしょうか? それならば、周りの兄弟姉妹から励ましをいただいてよいのです。遠慮はいりません。

 第二に「愛の慰め」がある教会です。慰めとは何でしょうか? 傷ついている人、さびしい人、落ち込んでいる人のいたみをいやすことです。

 第三に「御霊の交わり」がある教会です。私たちは御霊によって、イエスさまを主と告白します。この集まりに御霊を送ってくださり、私たちをひとつにしてくださり、絶えず主の恵みを分かち合う共同体として成長させてくださるように、私たちは自分たちの教会のために、お祈りする必要があります。

 そして第四に「愛情とあわれみ」がある教会です。これは、「愛情とあわれみ」がセットになっていますので、「愛情のあるあわれみ」と解釈してもいいですし、「愛情」、そして、「あわれみ」と解釈してもよいでしょう。天のお父さまがどのような愛情を私たちに注いでおられるか、日々みことばから学ぶ必要があります。そして、聖書全体を繰り返し読むことで身に着けた愛情を、家族、そして兄弟姉妹に注ぐことが必要になります。そしてあわれみですが、これも主の御思いを持ってこそ、兄弟姉妹に注ぐことがはじめてできるものです。兄弟姉妹が苦しんでいるとき、私たちの心が動かされるならば、それでこそ私たちはキリスト者としてふさわしいということができます。

 私たちキリスト教会は、キリストを主と告白し、御霊によって結び合わされている共同体です。日々キリストの似姿に変えられている集いです。今あげたような、キリストにある励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみを日々増し加えていただいている存在です。パウロも、ピリピ教会がそのように成長していることを期待していました。そこで2節以下のように勧めています。まずは2節です。4つの奨めをしています。同じ思いとなりなさい、同じ愛の心を持ちなさい、心を合わせなさい、思いを一つにしなさい……なんと、同じことを、表現を変えながら、4度も繰り返し語っています。そうです、ひとつになること、ひとつであることは、教会にとってとても大事なことです。

 私たちは何によって一致するのでしょうか。キリストにあって一致する、すなわち、ともにイエスさまを信じる信仰によって一致するのです。パウロは、そのようにして一致を保つことが、自分の喜びが満たされることであると語っています。そう、ここでも「喜び」が出てまいります。あなたがたがひとつとなることが、私にはうれしいのですよ……パウロは、キリストにあってピリピ教会を産んだ牧会者として、心から奨めています。私たちも一致を保つならば、その姿を主は喜んでくださいます。

 3節にまいります。……利己的な思いや虚栄によって行動してはならない、と戒めています。そう、私たちは、自分さえよければ、という思いにいつも捕らわれます。また、虚栄ですが、私たちは自分がほめられたい、自分を大きく見せたいという名誉欲に、いつも支配されそうになります。そういう「名を上げたい」思いが、キリスト教会の交わりの中に持ち込まれる危険がつねにあります。私たちはそれを防ぐために、へりくだる必要があります。具体的には、ほかの人を自分よりもすぐれた人と思うことです。これがだれに対しても、心からできるならば、それは教会としてふさわしい姿です。

 そう、だれに対してもです。イエスさまはそのように振る舞われたお方です。イエスさまは子どもたちを邪魔者扱いする弟子たちを情け容赦なく𠮟り飛ばされ、子どもたちひとりひとりに手を置いて祝福してくださいました。そしてイエスさまは、ご自分に対してひどい接し方をしてくる宗教指導者たちに対しても、最後まで忍耐してお相手してくださいました。ご自身よりすぐれた人など一人としてこの世にいない、神の子なるお方がイエスさまなのに、イエスさまはとにかくへりくだって人に接されました。このイエスさまのお姿にならうとき、私たちはだれのことも、自分よりすぐれた存在と見ることができるようになります。

 4節にまいります。……前提として、私たちは自分のことを顧みる必要があります。私たちひとりひとりは、主につくられて愛されている、かけがえのない存在です。いのちを粗末にしてはなりませんし、主から自分に託された領域を、できる限り拡大していく必要があります。しかし、それをしたうえで、私たちは他の人たちのことを顧みる必要があります。

5節。……以上、パウロがピリピ教会に求めている姿勢は、イエスさまにならうことであると語っています。

ここから先、6節から11節は、イエスさまの救いの歴史を、簡潔に、しかし必要なことはすべて押さえて述べています。この箇所は大きく2つに分かれますが、まずは前半、6節から8節までをお読みします。

まずは6節です。キリストは神の御姿であられました。全知全能なるお方、完全な愛、完全な義、完全な聖、完全な美、完全な善なるお方です。そして、この世界を創造され、私たちひとりひとりを創造されたお方でいらっしゃいます。このお方こそ、賛美を受けるにふさわしい方です。だがこのお方は、神としての在り方をお捨てになりました。本来、神としてのあり方をお捨てになる理由など何ひとつとしてないのに、このような被造物のために、すなわち創造主に根本から劣る存在のために、神としての在り方を捨てられる選択をされたのでした。

7節にまいります。イエスさまはご自分を無にされました。全知全能なる創り主が人として母の胎から赤ちゃんの姿で生まれるなど、これほどまでにご自分を無にすることはありません。そして、すべてを支配しておられる神が、仕える人間の姿となられました。

8節にまいります。イエスさまは自分を卑しくされました。本来、すべての人がイエスさまをほめたたえるべきでしたが、イエスさまは賛美どころか、ののしることばを一身に浴び、殴られ、むち打たれ、つばをかけられました。そんな目にあっても、イエスさまは全能者として、そのように迫害する者たちをさばき、たちどころに滅ぼすようなことをなさいませんでした。何の罪もなかったにもかかわらず、あたかもさばかれる罪人のように、イエスさまはご自身を宗教指導者たちの手にお委ねになりました。そしてイエスさまは死なれました。それも、十字架にかかって死なれました。この上なく残酷な方法で、本来罪ののろいを受けて滅ぼされるしかなかった私たちの身代わりに、のろわれた者となってくださったのでした。この十字架にかかって死なれたのは、「従われました」とあるとおり、御父のみこころに最後まで従順に従うことでした。

9節以下、大きな逆転が起こります。御父はイエスさまを復活させてくださり、天に挙げてくださり、すべての名にまさる名を与えてくださいました。10節と11節、すべての名にまさる名は、信じお従いする人がみなほめたたえるべき御名です。そして、イエスさまが主であると告白することは、御父の御名がほめたたえられることです。この、すべての人が集められて御座におられるイエスさまを賛美するのは、終わりの日に実現することです。そして私たちも、主とともに治めるものとなります。

その日に至るまで、私たちはひたすら、へりくだった生き方をするのみです。私たちはともすれば、威張りたい、人の上に立ちたい、と願うものです。しかしイエスさまが私たちにお示しになった生き方は、へりくだった生き方、仕える生き方です。実に十字架の死をもって、御父に従い、人々に仕える生き方を実践された、このイエスさまにならい、日々の歩みに取り組んでまいりましょう。キリストにならったこの歩みを地上の生涯で全うし、終わりの日に、「よくやった。よい忠実なしもべだ」とほめていただける私たちになることができますように、主の御名によってお祈りいたします。