聖書箇所 ローマ 3:25~26
神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。
すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。
本聖書箇所において、神は義であると2度繰り返している。
人間にとって、正しいことは重要であるが同時にやっかいである。
人間は他人には公平を求めると同時に、自分には都合の良い裁きを求める矛盾がある。
それでは神の義とはいかなるものか、聖書を通して見ていきたい。
■神は正しい基準を持ち、気まぐれなどで変わることはない。
(詩篇19:7~8)神の教えは完全であり、確かであり、真っ直ぐであり、清らかである。
■神の御教えは高度である。
(詩篇36:6)高くそびえる山、大いなる淵、人や獣を救われる。
■神は公平であり、その義を曲げることは決してなく、基準にそって裁かれる。
(エレミヤ9:24)地に恵みと公正と正義を行う。
■義を持って裁かれる。
(詩篇9:7~9)公平をもって諸々の国民を裁かれる。神は虐げられた者の砦。
一時的に悪が栄えても、神が恒久的に正しい裁きをする。
■罪と裁き
神の言葉を信じず、自己中心に歩む者は神の義に達せず、人の罪ゆえに必ず裁かれ、必ず死ぬ。
(創世記2:16~17)人類最初の罪が描かれている。
■神は人の命を贖うために、身代わりの血を必要とした。
(レビ記17:10~11) 旧約の時代に動物の血をいけにえとした。
■ 完全で潔い神の前に立てる者は誰もいない。私たちは罪の故に滅ぼされるべき存在であるが、神の忍耐故に滅ぼされないでいる。イエス・キリストが罪の身代わりになって血を流し死なれたからである。 (ローマ3:25)
イエスが身代わりとなった救いを信じる者も、神の基準を満たす者として、義と認められた。罪ある者を義と認められる奇蹟であった。
『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。』(ローマ10:11)