'25/5/11 主日礼拝「神の義」 下市キリスト教会 渡部和彦牧師

聖書箇所 ローマ 32526

神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。

すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。

 

 本聖書箇所において、神は義であると2度繰り返している。

人間にとって、正しいことは重要であるが同時にやっかいである。

人間は他人には公平を求めると同時に、自分には都合の良い裁きを求める矛盾がある。

それでは神の義とはいかなるものか、聖書を通して見ていきたい。

■神は正しい基準を持ち、気まぐれなどで変わることはない。

(詩篇1978)神の教えは完全であり、確かであり、真っ直ぐであり、清らかである。

■神の御教えは高度である。

 (詩篇366)高くそびえる山、大いなる淵、人や獣を救われる。

■神は公平であり、その義を曲げることは決してなく、基準にそって裁かれる。

 (エレミヤ924)地に恵みと公正と正義を行う。

■義を持って裁かれる。

 (詩篇979)公平をもって諸々の国民を裁かれる。神は虐げられた者の砦。

  一時的に悪が栄えても、神が恒久的に正しい裁きをする。

■罪と裁き

 神の言葉を信じず、自己中心に歩む者は神の義に達せず、人の罪ゆえに必ず裁かれ、必ず死ぬ。

 (創世記21617)人類最初の罪が描かれている。

■神は人の命を贖うために、身代わりの血を必要とした。

 (レビ記171011) 旧約の時代に動物の血をいけにえとした。

    完全で潔い神の前に立てる者は誰もいない。私たちは罪の故に滅ぼされるべき存在であるが、神の忍耐故に滅ぼされないでいる。イエス・キリストが罪の身代わりになって血を流し死なれたからである。 (ローマ325)

  イエスが身代わりとなった救いを信じる者も、神の基準を満たす者として、義と認められた。罪ある者を義と認められる奇蹟であった。

 

 

『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。』(ローマ1011